ブログを始めてしばらく経つにも関わらず
私:KTRKが何者なのか、全く説明しておりませんでした。

深く反省しております と共に
洗いざらい、自己紹介させて頂きます。


◆誕生
1982年、香川県高松市生まれ。
高松市の端っこの方で、長男として生まれました。

保育所では、『三輪車暴走族』の異名を持ち
今では考えもつかない、子供ならではの
悪行を幾度もはたらき…
給食抜きにされたことも数知れず…笑

この頃一緒に暴走していた悪友は
中学時代で再登場します!


◆小学生時代

両親共働きの家庭で、祖母は入学前に若くして亡くなり、
祖父が主に私の面倒を見てくれていました。

祖父が運転するバイクの後ろに乗り、
よくおもちゃ屋さんに連れて行ってもらいました。

この頃から、乗り物やキャラクターに
強い興味を抱き始めます。


その反面、人とコミュニケーションをとることは苦手で
一時期不登校になったり、お昼休みのドッヂボールより
机で絵を描いて遊ぶことが大好きな少年でした。


◆中学生時代

小学生の頃は、特にこれといって良い思い出もなく
中学に上がったからには、なんか面白いことしたいなぁ!

と思いながらも、状況は何も変わらず。
田舎のヤンキー校で、中学デビューは困難を極めました。

そんな中、中2の時に奇跡が重なって起きました。

・女の子と交換日記開始!(初めて彼女ができる)
 しかも学年で一番可愛い女の子!!驚

・服に興味を持ち始め、服好きの友達が一気に増える

・保育所時代の三輪車暴走族のあいつと親友に!笑
 彼の姉(の彼氏)がご近所では有名な暴走族の総長だったため、
 総長の彼女(の弟)の親友である私は、どの派閥からも狙われなくなる
※本当にコレ助かりました。クローズZEROみたいな学校だったので!笑

・英語の先生に認められ、英語の成績(だけ)は常にトップ。
 先生が風邪ひいて声が出ないときは、生徒なのに代理教師となる!

こんな、順風満帆の中2生活は中3になっても続き
その勢いで何故か、出来たばかりの高校へ推薦合格!


◆高校時代

この高校こそが、私のターニングポイントでした。

新しい高校は考え方も新しく、
『時間割を自分で決める』という
なんとも画期的な単位制高校でした。

休み時間も、ある程度自由自在なので
私はその頃ゲットしたガラケーとPC(VAIO)で
携帯サイト(着メロや出会い系)を多数作り、
『高校生管理人』として、複数の専門雑誌に
取り上げられるまでになりました。
(当時は良い時代で、100万PVとか余裕でしたね!笑)

今となっては時効ですが、メールで送ったらターゲット携帯を
パケ死させる!という恐ろしいプログラムを作って遊んだりしてました。

ちなみにその頃、出会いサイト管理人の権限を利用し、
隣の学校の彼女と出会うべくして出会ったのは、今でも
思い出です!…が、その後当然のごとくフラれました笑

で、肝心なお勉強はというと
数学が大嫌いな私は、数Ⅰで速攻リタイアし、
可能な限り全ての科目を英語に変更しました!
英語だけで9科目受けていました)

そのおかげで2年生から国際系列という
科に進学し、夏には2週間ロンドンへ
ホームステイにも行きました。

※ちなみに、私自身英語ペラペラではありません。
 日本へ帰ってきてすぐ讃岐弁に戻りました!笑

初めての海外、初めてのヨーロッパ。
このロンドン行きが再び、私の人生を変えます。

『あ、ファッションショーがやりたい』

『無いなら作ればいい』

ふと思いついた私は、無理やりクラス会議を通し、
2年3年次の2年連続で、校内最大の大講義室という
巨大な講堂をジャックし、ファッションショーを経験します。

この経験と快感が忘れられず、上京を決意。

当時、憧れていた漫画『ご近所物語』の舞台:
文化服装学院への進学が決まりました。
こちらも推薦で合格。

ちなみに私、受験をしたことがありません!笑


◆文化服装学院時代


ファッション業界ではCM流しまくりのモード学園に並び
有名な服の学校ですが、その中身は真の地獄でした。

朝から晩まで服を縫い続ける毎日。
今思えば、それが役に立っている部分もあるのですが
このころの私は完全に病んでいました。

『こんなはずじゃなかった…』

あまりにもキツイ、そして尋常ではない量の課題は
私の生活を日々蝕み、このころの平均睡眠時間は
およそ1日あたり3時間を切っていました。

そんな生活を3年間続けて、いざ卒業です。
卒業式に間に合わず、打ち上げ会場となった
新宿のバーで最後の課題を完成させ、ギリギリ卒業…

気づいたら、周りには苦楽を共にした親友が
たくさんいました。まさにプライスレス。
今でも大切な友達です。

文化祭のファッションショーには、数千から数万の観客が
全国からいらっしゃるんですが、私は音効(DJ)と映像(VJ)
を担当させて頂きました。この頃からITスキルに目覚めます。

で、卒業直前になって、担任の先生から
『君はアートなコレクションの世界より
 アパレル(カジュアルな既製服)が向いてる』

と言われて、アパレル企業に入社するのです


◆社会人・アパレル時代


私の入った会社は、名前こそ明かせませんが
『ダウンジャケットを日本に流行らせた社長』
経営するベンチャー企業でした(年商200億)。

グループ企業には酒販部門・食品部門・小売部門など
多岐にわたる経営で、その1つの子会社(年商20億)にて
私はアパレル部門の企画・デザイナーとして入社しました。

しかし、ダウンジャケットは売れるものの
Tシャツなどの夏物が一切売れないため、
忙しい時期はほぼ不眠不休、暇なときは洗車とか
みたいな、不思議な会社でした。

ここでまた転機が訪れます。

その会社は原宿の竹下通りで
結構有名な靴屋もやってたので

都内に本社のあるBANDAI様から
『エウレカセブンとコラボして
 スニーカー作りませんか?

と声がかかりました。

当時はユニクロの企業コラボなど
コラボブームの真っ只中。

ただ、『エウレカセブンって何?』
という幹部の一言でその企画は無くなりました笑

しかし、これは序章というか
運命の歯車が動き出す
全ての始まりに過ぎなかったのです。

その後、『BANDAIから声がかかった企業』
として、数多くの会社からお声がけ頂きました。

私が退社するまでの約6年半の間に
100種類以上のキャラクターやブランドを任されました。

小さい頃からキャラクター大好きな私は、
その知識を活かして、次々とコラボを成功させました。

そして、今まで1年に1,000枚程度しか売れなかった
Tシャツ部門を急成長させ、1年間に400万枚以上の売上を作り、
入社2年目にして企画チーフに就任しました。
(単純計算で売り上げを4,000倍にしたから昇進ですね)

当時の個人売上は、年間約6億円程度です。
20億だった年商も、35億までアップしました。
ま、給料は大卒初任給に毛が生えた程度でしたが笑

私にとっては、給料が安くても、
それ以上に仕事が凄く面白かったので
辞める気は一切ありませんでした。

関わった中でも特に有名なものだけ、下記に
メモとして残しておきます。

・スーパーマリオ(日本では2例目の任天堂公認)
・機動戦士ガンダム(30周年プロジェクト他)
・ドラゴンボール Z(アニメーター描き起こし)
・ハローキティ(スポーツキティシリーズ)
・NARUTO(初期ナルト〜)
・ワンピース(Panson Worksコラボ)
・鉄腕アトム(その他、手塚治虫全シリーズ)
・仮面ライダー(オリジナル描き起こし)
・ウルトラマン(オリジナル描き起こし)
・ヤッターマン(劇場版プロモーション)
・ゴジラ全シリーズ(東宝フィルム倉庫と提携)
・仁義なき戦い、トラック野郎等、東映系
・ワーナーブラザーズ(ルーニーテューンズ等)
・イナズマイレブン(レベルファイブ)
・Jelly Belly(アメリカのお菓子)
・HARIBO(ドイツのお菓子)
・MARVEL(スパイダーマン、ハルク等)
・旧車(トヨタ、日産、マツダ、三菱、ヤマハ等)
・PRIDE(格闘技、選手と審判のユニフォーム全般)
・琉球泡盛プロジェクト(蔵元直接契約)
・日本最古の酒『白雪』× ツバキアンナ様 コラボ
・企業コラボ(アサヒ飲料、丸美屋、TOTAL等)
・ベルマーク(日本で初めて服にベルマークを付ける)
・Yoshio Kojima(小島よしおブリーフ作成!いいとも出演!笑)
・Sweet Bambini(新垣結衣さんと夢のコラボ仕事…!!!)
・某有名スノーボードブランド S社、L社
・某有名アウトドアブランド P社、S社、W社、A社

などなど…

まさに目の回る毎日でしたね。

ただ、働けど働けど給料は上がらず、
貧乏暇なし生活を6年半も続けました。

今思えば、私というデザイナーは
捨て駒の一つに過ぎなかったのでしょうか。

終わりなき下積み生活…
あまりに働き過ぎて、しっかり食べているのに
栄養失調と体調不良で倒れました。

『東京で消耗している』ことに気づいた私は
ある程度夢も叶えたので、地元へ戻ることを決意します。

『世界の中心で愛を叫ぶ』や『UDON』という
映画を見て、故郷である香川県を懐かしく思い、
帰りたい!と叫びながら一人で泣いてしまったのも
地元へ帰るキッカケの一つですね。

大きな収穫があったとすれば
私の人生において初めて
有名人とのリアルな絆ができました。

私の作ったTシャツサンプルを各企業に預けていたのですが、
『これ持って帰っていい?』と全て持ち帰られた
X JAPANのYOSHIKI様!すごく嬉しかったです。

あと、ガンダムのTV特集があった際に
次長課長のお2人や、土田さんにも
ご着用頂きました。

さらに、原宿の服屋さんでは、来日中のトム・ハンクス様が
自腹で私のTシャツを購入したとの噂を聞きました!
ハリウッドスターの家着デビューですよ!笑

そして一番反響があったのは、『拝啓、父上様』という
倉本聰先生脚本のドラマ(フジテレビ)で、嵐の二宮和也くんが
第一話から最終話まで、私のデザインしたダウンジャケットを着用!!
おかげさまで、二宮くんの着用した茶色は、通常の10倍以上売れました。

最後に、一番印象に残っている出会いは…

古本屋で出会った画集の現代浮世絵師:ツバキアンナ様との出会い。
Tシャツでコラボした後も、日本酒業界と繋がりが出来たり…
この数年後に実現する私の結婚式ではウェルカムボードを描いて頂いたり…
まさに、この出会いによって、私の考え方は徐々に変わっていきました。


◆再び香川へ

香川へ帰ってきて気づいたのは
『完全に燃え尽きている』ことでした。

田舎生まれ田舎育ちの私が、都会の荒波に揉まれ
心身ともに疲弊仕切っていたのです。

地元である香川でも、前の会社の経歴のおかげで
すぐに就職は決まり、またアパレル企画として復帰しました。
ただ、香川のアパレルは、思っていたのと全然違いました。

企画として入ったのに、服は1枚も作らせてもらえませんでした。

地元のスーパーにテナントとして入っている服屋の
ポスターを作ったり、電球を変えたり、模様替えしたり…

高齢者向けの服を、商用バンのハイエースで売り歩いたり…

四国四県でお金持ちマダムに向けた展示会を開いたり…

もう、本当に黒歴史です。
(今となってはこれも良い経験でしたが)

ダサい・高い・ショボい服なんて
もちろん、売れるわけがありません。


情報弱者の高齢者オーナーを騙して、無意味に高価な
服を売るのです。自分に嫌気がさしてきました。

気づいたらいつの間にか私の名刺は『営業』に変えられていました。
『そりゃ儲からんわな』と声に出したいほどクズな会社でした。

で、結局入社2〜3年で『社員を半分リストラする』という
前代未聞の発表が突然あり、私は一番に手を挙げて辞めました。


◆今思う、私の進む先は?

正直、今でもわかりません。

いや

今でも変わりません。

確実に言えるのは、あの頃の志。

『無いなら作ればいい』

私は今、またターニングポイントに立っています。

さてこの先の人生がどうなるのか
正しい答えなんてわかりません。
でも、可能性は無限大です。

間違い無く言えるのは

最高の仲間を作ります。

香川に帰ってきて最も感動したのは

『人と人とのつながり』が
東京よりもさらに強いこと
です。

知らない人でも、すれ違えば挨拶したり
人として当たり前の行為なんですが
素直に感動しました。

そのおかげもあり、自分自身
礼儀・御礼・挨拶は大切!と心に刻んでいます。

私が、色々と物知りで、機械とか好きなのも
知ってたご近所の方たちが、私を頼ってくれました。

・パソコン買いたいけど、何がいいかな?
・スマホって使ってみたいんだけど
・タブレットって便利なの?
・デジカメの写真ってどうやって管理するの?
・ネットでお買い物、怖くないかな?
・お店のネットが動かなくなっちゃった…
・あなたのおかげで助かったわ!
・また定期的に来てくれないかな?
・お礼に晩御飯食べていきなよ!
・あなたがいてくれて、本当に良かった!

私は、こんな人たちのために頑張りたいです。

さて、リベンジはこれからだ。